Artist's commentary
慧音が毎朝ミルクを届けてくれるだけ
チリンチリン。
最近では特に気持ちの良い目覚めだったこともあり、良い気分でまだ朝もやが残る庭を眺めていたあなたは、玄関から聞こえてくる鈴の音に、外に居るであろう人物を思い浮かべながら、そちらへ足を向けた。
「○○、お邪魔するぞ」
ガラガラと扉を開ける音と共にあなたの名前を呼んだのは果たして、先ほど予想した通りの人物であった。
——上白沢慧音
幻想卿に迷い込んだあなたを保護し、こうして住むところを用意してくれて、更に仕事まで口利きしてくれるという、大変恩義がある人物である。
ちなみに、住むところが見つかるまでは居候させてくれた上に、ずっと泊まっても構わないと言われていたが、さすがに一人暮らしの女性宅に居候し続けるのは悪かろうということで固辞した経緯がある。(今更ではあるのだが)
朝から昼は寺子屋を開いて、村の子供達に勉を説いており、夜は人里の守護者として村の見回り等をこなしている。少しでも恩義を返す為に、あなたは何度も手伝った経験があるが、一日が終わるとクタクタになっているあなたとは対照的に、疲れを殆ど見せない姿は、尊敬に値するほどである。
さて、そんな朝から晩まで忙しい慧音が、朝早くから訪ねてくるのには勿論理由がある。
その手に持っている牛乳瓶からある程度予想が付くであろうが、こうして毎朝、あなたの許に牛乳を届けにきてくれるのである。
ある日、幻想卿での慣れない生活で疲れがたまっていたのであろうあなたの、情けない顔を見た慧音が、少し待っていろと言い自宅に引き返ししばらくすると、少し小ぶりな牛乳瓶に詰められた牛乳を持ってきたことがある。
正直なところ、牛乳があまり好きではなかったあなたは、しかも人肌位に生暖かい牛乳瓶を持ち少し気落ちしていたが、折角の好意(更に恩義ある人)を無碍にはできないと、意を決し蓋を開け、口を付ける。
するとどうだろう、牛乳独特の臭みもなく、口の中に優しい甘みが広がり、飲み込めば生暖かいにも関わらず、少しトロみは感じるが喉にへばりつくような感触もしないのである。
これは旨いと、一気に飲み干したあなたは、体の底から元気が湧き出るのを感じた。
その後、空の瓶をどうすればいいのかわからなかった為、夕方軽く洗った瓶を返すついでに、とても美味しくて元気が出たことを興奮気味に報告すると、嬉しかったのか頬を染めた慧音は
「それはよかった。そんなに効いたのであればこれから毎朝搾りたてを届けてやろう」
と、いうことがあったのが、毎朝、慧音が訪ねてくるようになった始まりである。
ちなみに、牛乳は鮮度を保つために蓋を開けたらすぐ飲むこと。別のお椀等に移して飲むと風味が落ちるため、牛乳瓶に直接口をつけて飲むこと。飲み終わった瓶は、専用の洗う壷があるため、夕方、洗わずにそのまま返して欲しいとのことを言い含められている。
ところで、あれだけ美味しい牛乳なのは何か特別なものを入れているのか聞いたことがある。すると、
「特に何かを入れてはいる訳ではない。……しいて言うなら愛情を込めてある」
正義感が強く、生真面目な性格で、普段から冗談を言うような人ではなかった為、理解が追いつかなかったあなたは思わずまじまじと顔を見てしまったところ、自分でも慣れない事を言ったのは分かっているのか、照れて顔を真っ赤にした慧音に頭突きを食らった思い出がある。
話を戻すが、前述した通り、慧音が朝から晩まで忙しいのを知っている為、牛の乳搾りならあなたが代わりにやることを提案したところ、
——その『牛』は一頭しか居ない特別な奴で、非常に恥ずかしがりやなのだ。私以外の人が搾るどころか、私がその『牛』から搾っているところを見られただけでもひっくり返って気絶してしまうだろう。
と言われたあなたは、牛がひっくり返るものなのかと疑問に思ったが、そう言われては引き下がるしかないのであった。
ひっくり返るといえばあなたは、つい先日の出来事を思い出す。
ある朝、いつもなら牛乳を受け取ると一旦台所に置き、慧音が帰ってからゆっくりと飲んでいたあなたであったが、その日に限っては夕方に用事があり、瓶を返せないということで、受け取ってすぐに慧音の目の前で一気に飲み干したことがある。
すると、それを見た慧音が顔を真っ赤にして倒れてしまったことがあったのである。
これはいかんと慌てて抱き起こしてみると、息が荒く体も異常に熱いことを確認したあなたは、熱があるのだと思い、靴を脱がせお姫様抱っこで自宅に上げ、自分が寝ていた布団にそのまま寝かせたのであった。
しばらくして目を覚まし体を起こした慧音に具合を聞くと、
「大事に育てている『牛』の牛乳を美味しそうに飲んでくれているのを見て、嬉しくて興奮してしまっただけだ」
と言う。いくら可愛がっている牛とはいえ、それだけの理由で倒れる訳がなく、普段からの疲れが溜まって熱が出てしまったのだろうと思ったあなたは、ついいつもより厳しい口調で今日一日はこのままそこで寝ているように言った。
生真面目で頑固な慧音のことだから、拒否して言い返してくるかと思ったあなただったが、当の慧音は珍しくきょとんとした顔をした後、少しはにかみながら
「うん。お前の言うとおりにしよう」
と、言って寝転び、にやけた口元を布団で隠したのであった。
そんなことがあったなと思い出しながら、改めて今訪ねてきた慧音を見ると、やはり朝から忙しかったのであろう、興奮したかのように少し息を荒げ、潤んだ瞳でこちらを見上げる様は、まるでこちらに好意があるかのように見えてしまう。
少し視線を下げれば、薄っすらと汗がにじんでいる胸元は、深呼吸の為か少し開き気味で、ついついその間に目がいってしまいそうになる。
折角善意で来てくれているのに失礼だとは思うのだが、毎朝こんな姿を見せ付けられては、不思議と元気が湧く牛乳の力も相まって不埒な考えを起こしてしまいそうになるあなたであった。
あなたは、いかんいかんと首を振り、無理やり思考を切り替える。
こうして息を荒げるほど忙しい、朝の合間をぬって牛乳を届けてくれるのは嬉しいのだが、このままではまたいつ倒れてしまうやもわからないと思ったあなたは、以前断られた乳搾りの代役の件を、まずは慣らすことから試させてくれないかと提案してみた。
すると慧音はしばし逡巡するかのように俯いた後、決心したかのように顔を起こしこちらを真っ直ぐ見つめながらこう言った。
——そうだな。私もいつかはお前にこの役目を任せてみたいと思っていた。いや、むしろその『牛』の専属飼育員になってもらいたいとさえ思っている。……だが、心の準備がまだできてないし、好敵手も多い。
けれど色々なことが片付いて、決心もついた暁には、改めてこちらからお願いさせてもらおう。
その時、お前が快く頷いてくれることを願っている。……いや、頷かせてみせる。
「そう……必ず、な」
と言った慧音の瞳が妖しく光っていることに、あなたはついに気づくことはなかった。